あの日から10年

思うこと

きっと、この題材でブログを書いたり文章を書いたり、TwitterやInstagramやFacebookなどにつぶやく人がたくさんいるであろうと思いながら、自分なりに当時の思い出を残しておく。

もちろん忘れるはずがない、忘れられない日だった。

あの頃私は東京の中心地の高層ビルの9階で働いていて、その時は大事なミーティングの最中だった。

必死に揺れるガラスの衝立を倒れない様にと、必死に抑えてて翌日わけのわからない筋肉痛になったのを覚えている。

会社にあるテレビをつけると、そこには津波に飲み込まれる町の様子が映っていて、その地域出身の同僚が青ざめた顔でそのテレビ映像を眺めていたのを覚えている。

津波が建物を飲み込み車を飲み込みきっと人を同時に飲み込んでいく映像…今まで40年ほど生きてきたけれど、あんなにショッキングな映像は本当に9.11依頼の映像だった。

9.11の映像もハリウッド映画の一幕の様に感じられたしまだ異国の出来事だったから他人事に思えたところはあった。

けれどあの映像は自分の国でそして身近な私の国を囲むこの海で、実際に起きている事なんてとてもじゃないけど信じられなかった。

まず頭をよぎったのは、当時日雇いのアルバイトで現場で海の方にいくといっていた彼氏(現旦那)の事である。

当然携帯の連絡はまったくつかない…ただ携帯の電話機能は使えなかったけどSNSの機能(TwitterとFacebook)は使えたが、やはり連絡はつかなかった。

不安な中千葉にある家族の事が気にかかったけれど、内陸だしきっと大丈夫だが私と同様東京にパートで働いている母親だけが気がかりだったがこちらも連絡がとれない。

不安な中余震があるかもしれない事にそなえて、社員全員で高層ビルからエレベーターは停止しているため非常階段で下に降りる。

ホテルが併設されている高層ビルだったが、表は何もなくとも非常階段に大きなヒビが入っていたのが恐怖を更に誘う。

一旦仕事どころではないしいつ余震があるかも解らない状況で東京の中心地にいるのは危険という事となり、社員全員帰宅が促された。

ただ当たり前だが電車が走れる状況ではない…これはどうするかというところでやっとメールが復旧しはじめ、旦那が海の方ではなく都心部の現場で揺れで足場がちょっと崩れたりしたけれど無事である事が解る。

また千葉の家族はみんな無事で、ただ母親だけが携帯の充電が切れてしまい連絡がつかず、歩いて帰宅したらしいのだが、たいそう心配した父親がぷりぷりと怒っていたのはちょっとほんわかしてしまう。

一旦私は徒歩で帰宅を試みたが、もしかしたら新宿へ行けば帰宅できる電車が万が一の可能性で走るかもしれないと思い、新宿へいきよく友人と集まっていた居酒屋で呑んでいた。

もちろん吞んでいる最中は余震がきたりして恐怖に震えながら、なんとか夜になって旦那が歩きで新宿までたどり着き合流、しばらくたって0時くらいに一本だけ電車が走り始めたのでなんとか乗って帰宅。

帰宅したら、机にあった筒状の花瓶にさしてあったミリオンバンブーが、そのままストンと水もこぼれる事もなく地面に落下して無事だったので、旦那と二人で奇跡だって嬉しくなった。

当時1Kの部屋に二人で同棲してたんだけど、そっから出勤する事もなく旦那は仕事もなく、ひたすら家にこもる日々は続く。

テレビは自粛のせいか広告出稿などもないせいか、ACジャパンの広告がずっと流れそういえばポポポポーンとこだまですか?の言葉が流行ったし、あれによってACジャパンのずっつ利用していた《エーシー》というメロディフレーズが鬱になるという理由で廃止された気がする。

テレビだと震災のニュース、安否情報、行方不明者数、津波の映像といろんな情報が交差していた。

いまではほぼ流れていないあの人がおそらく死んだであろう津波のリアルタイム映像は、今でも見ていて当時の鬱鬱とした気分を思い出す。

都内は物流が停止していた為か買占めの影響なのかで、深刻な食糧不足に陥っていた。

近くのスーパーにいっても食料がない。

あの経験は、今でも恐怖になっているし、やっぱり地震が起きるとまず食料不足に陥るんだなって事は思った。

幸い東京都市部に住んでいるので計画停電もなく、電気は普通に使えたのでそれはとても助かった。

インフラにはなんら問題はなかったが、今のコロナの状況と同じくらい引きこもり生活が続く。

なんか楽しんだら不謹慎、死んだ人がいるのに騒いだら不謹慎…そんな風潮が埋め尽くしていたので、ドラマとか制作したり歌を歌ったり動画配信するのもためらう風潮だった。

一番ショックだったのは、母の産まれ故郷でもあるよく泳いだ勿来の海岸が津波でぐちゃぐちゃになった映像を見た時だった。

今思い出してもやっぱり泣いてしまうし、茨城の六角堂もなくなってしまったりと本当に思い出がなくなるようで辛い。

それ以上に身近な人を亡くしたひとたちは、それ以上にショックが大きかった。

妹の旦那はあの津波で父親を亡くした…最低な人間って言って嫌ってはいたけれど、分かり合えないままにある日急にその人が消えてしまうのは心に闇を残してしまう。

母親も福島が出身のせいか、やはりとてもショックを受けた。

特に原発のニュースが出るたびに、もう行くことができない土地になるのではないかと心配していたのを覚えている。

 

10年以上私は母親の実家にいけていない、旦那にあの風景を見せてあげられていない。

その理由はもちろん震災が原因じゃなく、いろんな事が重なってなのだけれど。

今年は絶対に、福島の海を旦那に見せたいなと思う。

今もコロナで大変な時期だけれど、きっと震災の事もコロナの事もきっと人生において絶対に忘れないと思う。

そして必ず人間は立ち直れるって、心のどこかで信じたい。

 

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