「生い立ちが不幸でもまともな人はいくらでもいる」

思うこと

※画像が料理ですいませんが内容はまったくもって関係ないです

某女優がお薬で逮捕されたり、いろんな犯罪を犯した人間の生い立ちを深堀りして、よくTwitterやコメントに書いてある言葉です。

わたしはこの言葉が嫌いです。

確かに犯罪は不法行為です。

薬物は確かに、被害者のいない犯罪(被害者は自分)とも言われますが、殺人や傷害や詐欺やその他の不法行為は被害者が存在します。

そういう人に正義を振りかざしたいがために、よくこの言葉が使われるんですよね。

生い立ちが不幸でもまともな人はいくらでもいる、と。

そう言ったひとたちに聞いてみたい一言があります。

「果たしてそんな不幸な状況で自分が正気を保っていられるか?」

私の答えはNoです。

人間の精神は、そんなに強靭はものではないと思ってます。

DVを日常に受けていたとして、もし自分の子供を殺したら暴力を避ける事ができると言われたら果たして子供を殺さずに命を絶てるか?

小さい頃虐待を日常的に受けていたり、愛された記憶を持たない人に人の痛みを解れと言えるか?

そのつらいトラウマから逃れる為に、お酒やたばこや薬物に手を出して逃避してしまう事だっていくらでもあると思います。

なんか叩いてる人は、それが正しく認められるための承認欲求なんでしょうけど、逆にそんな小さな欲求のためにそんな言葉を吐いていいのか?

って最近のニュースやTwitterなどのSNSを見てると本当に思うんですよね。

自分がいつ、その画面の向こうの犯罪者で報道される側に回るかなんて、全くわかりません。

いつそっち側に堕ちてしまうのかなんて、誰にも想像つかないと思います。

記事を色々とあさると、死刑囚の悲惨な生い立ちが出てきます。

いろんな人を見て来たけど、普通である事がどれだけありがたいか、愛されて育つって事がいかに重要かって事を思い知らされるんですよね…本当に。

なんとなくちょっと思うところがあって吐き出してみました。

さて、今日は飲み会!

楽しんでこようw

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